【恋35-24】 傍にいたい 1
2006.01.20 Friday | 鋼の錬金術師 > 【恋35-24】 傍にいたい
※ 短編。書き散らした破片。【恋35-25】の対極、どちらかというと陽性。
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その日理由もなく呼び出された私は普段ありえない性急さに少なからず驚き、数日前から煮込み続けたポトフの火を落として、いつもより多めにしかし手早く髪を梳いた。行ってくるわねと愛犬の頭を数回撫でる。彼は待つことが嫌いなので、急がなければならない。一度機嫌を損ねると、意外に長く根に持つタイプなのだ。
しかし息せき切って辿り着いて見れば、夜もすがら薄い色をかろうじて保つ蛍光灯の下、無骨なロングコートのポケットに無造作に手を突っ込んだ彼は、トレードマークの黒髪ごと闇に溶け込んでよく見えない。目をこらしてようやくその輪郭を認め、声をかけようとして一瞬足が止まった。
風が吹いたのだった。梳いた髪が前に上にと躍り上がり、私は立ち止まってそれをやり過ごした。と、バサリと薄っぺらい音に耳を傾げ埃をおさえて目を開けると、せせこましく背を丸める黒い影。どこからともなく飛んできた新聞紙が彼の足にまとわりつき、あたふたと剥がしているうちに今度はそれがめくりあがって顔からまともにかぶってしまって、平素格好つけた気障(きざ)男とは思えぬ身振りで慌てている。
私はひどく可笑しくなった。そしてなんでこんなに意味もなく可笑しいのだろうと考えた。少し考えてああと思った。今夜の彼はどこか違うのだった。
十中八九そこだと思った。手が、違うのだ。
自在に焔を操る白手袋に包まれたのとは違う彼の肌色の手に見入った。わしゃりと紙を掴むそれは妙に肉厚で、親指の根本がぷにりと膨らんでいる。やっとこ新聞を剥がすと、風呂上りの子供みたいに両手で丸い顔をごしごしこする。丸い顔と丸い手の同じ種類の同じ厚み。
温かそうな手を持つ、背中に独特の角度がある上官でない彼を、もっと近くで見てみたくなった。私は拳を噛んで含み笑いを飲み込み、近寄っていく。
「大佐」
振り向いた彼は己の焦燥を取り繕う暇もなく、あ、と開きかけた口を押さえて黙り込んだ。
「……見たのか?」
「はい、しっかりと」
いつものおかえしとばかり、骨身に十分染みこむように、重きを置いて言葉を綴った。彼はしまったと言わんばかりの顔で口元を押さえている。
こらえようのない袋小路に堕ちた瞬間。片想いが突然、恋に変わった瞬間。
(2005/06/22)
――そんな疑わしい目をしないでまあ聞いて、これ一発でなんでも消せる、とにかくスゴイ消化剤なんだから、こないだのサン・ルイ通りの肉屋の火事、あれだって小火(ぼや)で済んだのは、あそこの親父がうちとこのこれを持っていたからですし、寝煙草を布団に落としてのじくじく燃焼だってこれで一発! なんとか山の狸さんの背中だってこれさえありゃ、――
記憶を作り上げたのではないかと心配になるほど饒舌多弁なこの男、罪もない顔で我が家の戸を叩いて三十分、玄関先に座り込んだまま一向に立ち去る気配をみせない。不在がちな家主にたまたま行き当たった幸運な押し売りは噛み付き加減も上々で、こちらが半ば辟易しているのをものともせず、ここぞとばかりあれやこれやまくしあげている。しかもどうやら多弁だけでなくよう陽発独演型でもあるよう、熱が入るに従って身振り手振りが少しずつ大袈裟になって、しまいにはさすがの私も玄関のドアを閉めたくなるほど恥ずかしい様相だった。
ですからねえ奥さん、と繰返し男。私は内心首をひねる。花もレースもなにもない、色の失せた玄関を見て、どこぞの男君が通ってると思えるならまあそれでも構わないけど。
しかしそんな私が珍しく追い払うこともしないで(追い払うのはいつでもできるけど)一緒に座り込み延々と話に聞き入ってしまうのには理由があったのだ。
――いやいや奥さん驚きなさんな、なにを隠そうこれはかの有名な焔の錬金術師殿から技術提携いただいた新しい消火剤なんです、んーその顔はもしかして焔の錬金術師をご存知ない? それは奥さんもう人生最大の損失と言っても過言じゃありません、眉目秀麗、威風凛凛、なみいる女性をばっさばっさと切って捨てるところなんてまさに英雄色を好むっつうか徒(あだ)な黒雫(くろしずく)って風情、天はニ物をあたえずなんてありゃ嘘で……おっとこりゃ失敬話がずれましたな、ですからこの新型消火剤その名も速攻消火マスタング!――
可哀想に、彼は速攻消火されてしまうらしい。いや待て違うわ消火する側かと。それはそれでどちらでもいい見ものかなと私は首をすくめる。
とまれ、まさか己の上司が話題にのぼるとは驚天動地というほどじゃないにしても、まあひとつのネタではあるなと私、人生時に面白く捨てたもんじゃないと膝をついた。
「これ買ったら、なにか特典とかつけてもらえたりするの?」
言われて問われてうっふっふと男、苦労症らしい狭い額をごしごし拭い、
「そりゃもう奥さん言わずもがな今月はお客様感謝祭開催中ですから! 今でしたらもれなくもう一箱、おまけに箱の裏蓋についてる応募券をお送りいただきますと、先着十名様を稀代の英雄マスタング ディナーショーへご招待!」
なんだそりゃという気持ち半分、そしてまずい、面白すぎると苦笑半分。
だがありえないと理解しているそのわずかな隙間で、人の心とりわけ女性の胸奥にしっかり爪を立てる手練手管(てれんてくだ)を心得た英雄ロイ・マスタングは、離れた壁の片隅にいる私という女をちゃんと見つけてくれるだろうか、人々の摩擦に下唇を横に引っ張りながら、そこにいたかと手を差し伸べてくれまいか、と。いつにもありえない不可思議なメランコリーにとらわれた自分に、腹の底から熱が上ってくるのだった。
「いいでしょう、ほらあ旦那さん置いてすっとんで行きたくなっちゃうから!」
文字通りすっとんで行ったのだ。まったく恥ずかしいところを見られたな、と笑う彼に、私は結局なぜ呼び出されたかという疑問を投げることはできなかった。むしろこのうやむやのままにはしる、しょんぼりとした緊張感がたまらなく心地よくて、並んで歩きながらわざと指先だけをかすめる悪戯事を仕掛けてみたりもした。あえなく目論見は外れたけれど、あわよくば彼の手が私の手をすくい取ってくれますようにと込めた祈りを忘れることはできない。
「……あら、うちの人だってたいしたものよ?」
口から出まかせ、とはよく言ったもので。はっと気がつくと、おやおや御馳走様でございますねぇと頬肉に歯をうずめて笑う男。
私の中でなにかが変節してきている。多分、あの夜の彼を見てから。
今この場に彼がいたらさぞかし楽しかろうに、と温かい溜息を吐きながら、私はこれもらうわ、と広げられた包みのひとつに手を伸ばした。
(2005/07/13)
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その日理由もなく呼び出された私は普段ありえない性急さに少なからず驚き、数日前から煮込み続けたポトフの火を落として、いつもより多めにしかし手早く髪を梳いた。行ってくるわねと愛犬の頭を数回撫でる。彼は待つことが嫌いなので、急がなければならない。一度機嫌を損ねると、意外に長く根に持つタイプなのだ。
しかし息せき切って辿り着いて見れば、夜もすがら薄い色をかろうじて保つ蛍光灯の下、無骨なロングコートのポケットに無造作に手を突っ込んだ彼は、トレードマークの黒髪ごと闇に溶け込んでよく見えない。目をこらしてようやくその輪郭を認め、声をかけようとして一瞬足が止まった。
風が吹いたのだった。梳いた髪が前に上にと躍り上がり、私は立ち止まってそれをやり過ごした。と、バサリと薄っぺらい音に耳を傾げ埃をおさえて目を開けると、せせこましく背を丸める黒い影。どこからともなく飛んできた新聞紙が彼の足にまとわりつき、あたふたと剥がしているうちに今度はそれがめくりあがって顔からまともにかぶってしまって、平素格好つけた気障(きざ)男とは思えぬ身振りで慌てている。
私はひどく可笑しくなった。そしてなんでこんなに意味もなく可笑しいのだろうと考えた。少し考えてああと思った。今夜の彼はどこか違うのだった。
十中八九そこだと思った。手が、違うのだ。
自在に焔を操る白手袋に包まれたのとは違う彼の肌色の手に見入った。わしゃりと紙を掴むそれは妙に肉厚で、親指の根本がぷにりと膨らんでいる。やっとこ新聞を剥がすと、風呂上りの子供みたいに両手で丸い顔をごしごしこする。丸い顔と丸い手の同じ種類の同じ厚み。
温かそうな手を持つ、背中に独特の角度がある上官でない彼を、もっと近くで見てみたくなった。私は拳を噛んで含み笑いを飲み込み、近寄っていく。
「大佐」
振り向いた彼は己の焦燥を取り繕う暇もなく、あ、と開きかけた口を押さえて黙り込んだ。
「……見たのか?」
「はい、しっかりと」
いつものおかえしとばかり、骨身に十分染みこむように、重きを置いて言葉を綴った。彼はしまったと言わんばかりの顔で口元を押さえている。
こらえようのない袋小路に堕ちた瞬間。片想いが突然、恋に変わった瞬間。
(2005/06/22)
――そんな疑わしい目をしないでまあ聞いて、これ一発でなんでも消せる、とにかくスゴイ消化剤なんだから、こないだのサン・ルイ通りの肉屋の火事、あれだって小火(ぼや)で済んだのは、あそこの親父がうちとこのこれを持っていたからですし、寝煙草を布団に落としてのじくじく燃焼だってこれで一発! なんとか山の狸さんの背中だってこれさえありゃ、――
記憶を作り上げたのではないかと心配になるほど饒舌多弁なこの男、罪もない顔で我が家の戸を叩いて三十分、玄関先に座り込んだまま一向に立ち去る気配をみせない。不在がちな家主にたまたま行き当たった幸運な押し売りは噛み付き加減も上々で、こちらが半ば辟易しているのをものともせず、ここぞとばかりあれやこれやまくしあげている。しかもどうやら多弁だけでなくよう陽発独演型でもあるよう、熱が入るに従って身振り手振りが少しずつ大袈裟になって、しまいにはさすがの私も玄関のドアを閉めたくなるほど恥ずかしい様相だった。
ですからねえ奥さん、と繰返し男。私は内心首をひねる。花もレースもなにもない、色の失せた玄関を見て、どこぞの男君が通ってると思えるならまあそれでも構わないけど。
しかしそんな私が珍しく追い払うこともしないで(追い払うのはいつでもできるけど)一緒に座り込み延々と話に聞き入ってしまうのには理由があったのだ。
――いやいや奥さん驚きなさんな、なにを隠そうこれはかの有名な焔の錬金術師殿から技術提携いただいた新しい消火剤なんです、んーその顔はもしかして焔の錬金術師をご存知ない? それは奥さんもう人生最大の損失と言っても過言じゃありません、眉目秀麗、威風凛凛、なみいる女性をばっさばっさと切って捨てるところなんてまさに英雄色を好むっつうか徒(あだ)な黒雫(くろしずく)って風情、天はニ物をあたえずなんてありゃ嘘で……おっとこりゃ失敬話がずれましたな、ですからこの新型消火剤その名も速攻消火マスタング!――
可哀想に、彼は速攻消火されてしまうらしい。いや待て違うわ消火する側かと。それはそれでどちらでもいい見ものかなと私は首をすくめる。
とまれ、まさか己の上司が話題にのぼるとは驚天動地というほどじゃないにしても、まあひとつのネタではあるなと私、人生時に面白く捨てたもんじゃないと膝をついた。
「これ買ったら、なにか特典とかつけてもらえたりするの?」
言われて問われてうっふっふと男、苦労症らしい狭い額をごしごし拭い、
「そりゃもう奥さん言わずもがな今月はお客様感謝祭開催中ですから! 今でしたらもれなくもう一箱、おまけに箱の裏蓋についてる応募券をお送りいただきますと、先着十名様を稀代の英雄マスタング ディナーショーへご招待!」
なんだそりゃという気持ち半分、そしてまずい、面白すぎると苦笑半分。
だがありえないと理解しているそのわずかな隙間で、人の心とりわけ女性の胸奥にしっかり爪を立てる手練手管(てれんてくだ)を心得た英雄ロイ・マスタングは、離れた壁の片隅にいる私という女をちゃんと見つけてくれるだろうか、人々の摩擦に下唇を横に引っ張りながら、そこにいたかと手を差し伸べてくれまいか、と。いつにもありえない不可思議なメランコリーにとらわれた自分に、腹の底から熱が上ってくるのだった。
「いいでしょう、ほらあ旦那さん置いてすっとんで行きたくなっちゃうから!」
文字通りすっとんで行ったのだ。まったく恥ずかしいところを見られたな、と笑う彼に、私は結局なぜ呼び出されたかという疑問を投げることはできなかった。むしろこのうやむやのままにはしる、しょんぼりとした緊張感がたまらなく心地よくて、並んで歩きながらわざと指先だけをかすめる悪戯事を仕掛けてみたりもした。あえなく目論見は外れたけれど、あわよくば彼の手が私の手をすくい取ってくれますようにと込めた祈りを忘れることはできない。
「……あら、うちの人だってたいしたものよ?」
口から出まかせ、とはよく言ったもので。はっと気がつくと、おやおや御馳走様でございますねぇと頬肉に歯をうずめて笑う男。
私の中でなにかが変節してきている。多分、あの夜の彼を見てから。
今この場に彼がいたらさぞかし楽しかろうに、と温かい溜息を吐きながら、私はこれもらうわ、と広げられた包みのひとつに手を伸ばした。
(2005/07/13)
author : M.Yoshida | - | -